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2018 鱒沢神楽初舞 其の弐

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日曜日の飲み会で、行方不明になっていた上着が戻ってきました。

着なれないものを着ると、これだから嫌になります。笑

それでは、其の弐へ

 

石上神楽さんの岩戸開き

 

こちらも一月の共演会と同じ演目です。

 

手に注目

 

一生懸命、真似しようとしています。

 

くずし

 

鱒沢神楽さんの龍殿

市内の神楽では飯豊神楽さんとこちらが女性参加率が高いのですが、

 

そろそろ、この龍殿でも神楽女子の舞が観られる日が来るかもしれません。

 

昨年の遠野まつりでも演じていたと記憶していますが、

なんせ私の記憶なので・・・汗

 

普段、運動していない私なら、翌日以降に筋肉痛間違いなしです!笑

 

大出早池峰神楽さんの三番叟

 

こちらも共演会同様に、熱演

 

会場中のおじさん、おばさん、おじいさん、おばあさん達が大喜びでした!

 

今年7月17日の大出早池峯神社宵宮でも、きっと熱演が観られることでしょう~!

 

ところで、先ほど、とぴあ前を通過すると何やら大勢の人

自動火災報知機が作動したようですが、火災発生ということではないようでした。

職員の適切な誘導で、遠野駅前へ避難し始めたところで、避難解除。

良い訓練になったのではないでしょうか。

ガスコンロやストーブ、そしてタバコの消し忘れには、充分に気を付けましょう!

 


2018 鱒沢神楽初舞 其の参

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昨日の雨雪が氷って、今朝はその上に雪。外に停めている車の雪を掃おうとするも、なかなか・・・。

そんな気候のせいか、無いことに、時々愛妻からチョコを頂きました!

前回、貰ったのはいつだったのか?・・・記憶は、はるか彼方。

間違いがあってはならないと思い、これは誰のかとメールで確認しました。笑

と云う事で、初舞も最終章です。

 

鱒沢神楽さんの岩戸開き舞です。

 

大出早池峰神楽では、最初に扇子や剣を持ち一人で舞うのが天思兼尊とされ、

次に一緒に舞うのが多力男尊、そして大日霊女尊、鈿女命が登場し、4人での舞になるようです。

 

くずし

 

湧水神楽さんの三番叟

 

舞手は、神楽共演会でも紹介された女性で、緑のふるさと協力隊として遠野市に派遣されている方。

 

任期も、あと一ヶ月ちょっと。

 

遠野を離れてしまうのでしょうか・・・涙

 

多忙な保存会長が到着し、着替えて、すぐ、出番です!

 

小倉神楽さんの翁舞

 

午後2時、ホストの鱒沢神楽さんの下舞い

 

そして、権現舞

なんとか、この後に出席する総会に間に合いました。笑

書き忘れましたが、初舞の途中で、いつものように、煮しめ、おにぎり、漬物、お菓子、お酒等が、

皆さんに振る舞われましたが、写真を撮りながらという事で、おにぎりを御馳走になりました。

ありがとうございました!

 

2018 松崎ひなまつり

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昨日の2月16日は旧暦の正月、中国では春節と云い、今でも最大のイベントとなっていますが、

東北では民俗的な慣習の多くが、旧暦に従って行われることが多いように感じます。

 

そんな旧暦正月の遠野は、御多分に漏れず、雪が多く、雪かきしては、また降り

と云う状況が続いています。

 

今年は4月18日が旧暦でいう3月3日に当たりますが、当時は本当に春を感じる良い時期に

行なわれていたんでしょうねえ~

 

ひな祭りまでの長い前置きをして、今年も松崎ひなまつりへと足を運んでみました。

会場は遠野市松崎町にある松崎地区センター、遠野北小学校の東側道路向かい

 

昨年より展示スペースが広くなり、人が混み合っても、ゆっくり鑑賞できるようです。

 

ここの特徴は、おひな様というよりは、市内にある郷土芸能を多く展示していることで、

しし踊りには、おそらくほとんどの市民が見たことのない鱒沢ししもあります。

 

今年の新作として、ご覧のような南部氏入部行列の様子が加わり、

 

全く別物としては、可愛いおばあちゃんも。

 

3月4日までの展示となるそうです。

ちなみに、

遠野駅周辺(いわゆる町中)で開催される遠野町家のひなまつりは2月23日から3月4日まで。

ところで我が家の高価なおひな様は、飾らなくなって何年になるものやら・・・笑

2月末は何かと・・・

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遠野市の今朝の最低気温は、アメダスデータによると-17.9℃

震災後、季節が一ヶ月ぐらい、ずれてきているような感じがします。

先日、寒さ厳しい遠野から山を越えて大槌町へ行ってきましたが、まぶしいぐらいの青空で

遠野とは防寒着一枚ほどの気温差。

 

被災し仮設で暮らしているお宅の上棟式でした。あれからもうす7年です。

 

近親者と工事関係者とで神事を行い、建物の廻りを清め、つつがなく終了

 

式の後にお昼を頂くことになりましたが、お弁当かと思いきやご覧のような御馳走で、

カメラを持ってうろつくだけの私は、恐縮至極に存じ奉り候状態でした。汗

 

新年早々から毛ガニが食べたいと思い続けていたせいか、カニにピントが合ってしまい、

他の食べ物には目もくれず、一心に食す!

落ち着いて廻りの方々を見渡すと、毛ガニはお持ち帰りだったようです・・・汗

半袖になる前には、新しい生活が始められるようお祈り申し上げます。

 

さて、2月も残り一週間をきりましたが、今度の土日は、市民の舞台第43回「遠野物語ファンタジー」、

第18回遠野どべっこ祭り、第19回遠野町家のひなまつり等々、イベント盛りだくさん。

そんな中で第何回と数えられないほど古くから行なわれている小友町裸参りが24日(土)行なわれます。

 

土曜日の午後5時30分、遠野駅前からご覧のような無料バスが出ます。

予約無用なので、とりあえず、行ってみようかという気軽な気持ちで乗車してみては如何でしょう?

 

6時過ぎぐらいに小友町到着となり、裸参りの始まる6時30分までの間は、

無料の豚汁(残っていれば)や甘酒を飲みながら、ライトアップされた巌龍神社周辺を散策するのも良し!

 

6時30分、小友地区センターからスタートした裸参りの一行がやってきて、

町南側の橋までを三往復して終了です。

帰りは、7時30分に無料バスが出るので、遠野駅に戻ると8時頃。

そのまま家に帰るのも良し、一杯ひっかけて帰るも良しです。

無料バスは発着共、遠野駅なので、JR釜石線利用でもOK

何も予定も無いし、3時間弱だけだったら、無料バスに乗ってみようかなあと思い始めたあなた、

お待ちしております!

? 私は、小友町裸参り関係者ではありませんが・・・笑

 

2018 小友町裸参り

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2008年2月初めて小友町裸参りを生で観た年から今年で11年。

9歳だった下の娘も二十歳になりますが、中高年の一昔は、あまり変わり映えもせず。

おらおらでひとりいぐも・・・

と云う訳にも行かず、ここ数年同様に、今年も仲間とつるんでの出撃。

 

駅前出発の無料バスには、笛吹御一行様と女性一人、さらには仙台から24地割さんご夫妻、

そして、日中、遠野ふるさと村でのどべっこ祭りに参加したと云う某古民家研究会の皆さんが乗車。

例年より多いお客様ということで、関係者に成り代わり御礼申し上げます。笑

その車中、古民家研究会の方々のちょっとした話を耳にして頭に浮かんだのが

遠野駅舎と旧大槌町役場庁舎・・・どちらも保存と解体が議論されています。

 

初めてみる方々に裸参りのレクチャーをしているうちに小友町到着。笑

予定どおりに無料豚汁を目指しましたが、なんと今年は、バスの到着に合わせてのお振る舞い。

病み上がりだと云うご婦人ひとりが真っ暗闇の道路にガスコンロを設え、もてなしくれました!

残念ながら暗すぎて写真には撮れませんでしたが、おかわりも。

そして、これまた恒例の甘酒も・・・ありがとうございました!

 

時間の都合上、豚汁・甘酒を先に頂き、お参り

 

6時過ぎ、外山神楽さんを先頭に裸参りの一行が神社到着

 

社内で神事が始まり、

 

裸参りも同時にスタートです。

 

町はずれの石碑との間を三往復

 

通りは除雪され、歩きやすくなっていましたが、風があり、寒さひとしお

今年、四十の厄年をむかえる市内の男性達も参加しているようでした。

 

また、恒例になっている遠野西中学校の生徒さん達も参加

 

境内ではお参りの一行が戻ってくるのを暖をとりながら待ちますが、寒い!

 

一緒に行った同級生が、区切りの良い歳にみんなで参加しねが~?

と話していましたが、色よい返事はしない笛吹です。汗

 

お参り後半になる頃、神社では権現舞

今年は外山神楽さんでしたが、来年の鷹鳥屋神楽さんは・・・・

昨年、鷹鳥屋神楽さんの庭元が火災となり、神楽道具一式失ったようなので心配です。

文化・民俗関連の助成金で活用できるものはないのでしょうか?

または今流行りのクラウドファンディングとか?

 

さむっ!さむっ!と云いながら、無事、今年も小友町裸参りの終わり

市民の舞台、遠野物語ファンタジーと毎年かち合うので、なかなか見物する人が増えませんが、

その前に裸参りを運営する側がギブアップしなければ良いがと、

心配性の笛吹です。笑

 

帰りも無料バスを利用し遠野駅着となり、遠野ぶれんど裸参りに行く会と

24地割さんご夫妻一緒に直会(なおらい)をちょっとだけ・・・汗

 

釜石郷土芸能祭の二日目へ!

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小友町裸参り後の興奮冷めやらぬ日曜日、時々愛妻から釜石で郷土芸能祭あるんだって

とのありがたい情報により、午前の部ぎりぎりで会場入り

 

ステージでは午前の部の最後を飾る青笹しし踊りさんが既に出演中

 

いつものように、きっちりと魅せてくれました!

 

そして、午後の部

 

後半のスタートは特別出演となる早池峰岳神楽さん

ところが、アナウンスがあり、会場内での撮影、録画によるインターネット等による公開は、

団体からの許可を撮っていること、と云うお触れ

これが岳神楽さんだけのことか、出演団体全てのことか理解できませんでしたが、

公開はこれにて終了です。

釜石市内の郷土芸能を地域外の方々にも広く知って頂くチャンスにもなったのに・・・

と泣く泣く、見学となりました。

 

ポスターの告知にも、撮影等に関することは掲載されていなかったのに・・・

と、不満タラタラでしたが、ロビーの展示写真に少しだけ癒されました。

 

昭和47年の飯豊神楽さん

 

昭和30年代の附馬牛町のしし踊り

踊っているのは上柳獅子踊りさんで、場所は徳昌寺ではないでしょうか?

そして、時期はお盆

 

同じくロビーでは舞川鹿子躍のKさんにもお会いし、喫煙所では青笹しし踊りの方々ともお話でき、

気分を持ち直し最後まで観ての帰宅となりました。

これで、3月から、ストレス無く本業に打ち込めるような気がします。笑

町家で楽しむ女子神楽

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先週3月2日(金)が旧暦の1月15日で、いわゆる、小正月。

明治の頃まで、この時期には、遠野の近在から田植踊りの一団がやってきて、

店先・庭先で、賑やかに踊りを披露していたようです。

 

賑やかと云えば、先日、遠野出身の芥川賞作家「若竹千佐子」さんが帰郷していたようで、

すぐそばに居たのに知らずに、惜しいことをしました。笑

この話題に乗り遅れないように、「おらおらでひとりいぐも」の他、直木賞受賞作品「銀河鉄道の父」も

引き続き購入し、一気に読み終えました。

女性の目線で書かれた「おらおらで」と父親目線の「銀河鉄道」、

全く異なる内容ながら、主人公はどちらも馴染みある方言で語っており、久しぶりに心に響きました!

 

さて、旧暦小正月期間中の本日は、こちらへ

 

一日市(ひといち)にある旧三田屋さんで行われた「町家で楽しむ女子神楽」

会場には新暦のひな祭りよろしく、吊るし雛やおひな様が飾られ、100名近い人で大賑わいでした。

 

今回は鱒沢神楽、外山神楽、飯豊神楽の三団体

流派の違いは権現様にも現れているようです。

 

トップを飾ったのは、鱒沢神楽さんで三人鶏舞

 

2016年の鱒沢神楽初舞いで観て以来の三人舞です

 

舞手の三人は県外出身と紹介がありましたが、今では完全な遠野人です!笑

 

二番手は外山神楽さん、どの神楽も流石に胴だけは男性ですが、

そのうちに完全女性神楽が観られる日も遠くないような気がします。

 

八幡舞

 

よわよわしさは微塵も無く、悪魔を祓うには充分な舞いで、

 

女子神楽であることを一瞬忘れてしまいそうでした。

 

と、云うところで、次に続くです!

町家で楽しむ女子神楽 其の弐

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3月第2週は雨降りで幕開けです。

確定申告に行く予定でしたが、釜石振興局への用件と合わせることにし、明日以降に変更。

 

ひな祭りも終わりましたが、女子神楽の続きです。

 

時間前に楽屋?で、飯豊神楽の保存会長さんとお話ししましたが、

先日、釜石市民ホールで飯豊神楽の古い写真を観たとお伝えしたところ、

保存会長さんのお宅は、以前、火災になり、当時の写真等は全く無いとのことでした。

 

3番目の演目は、その飯豊神楽さんの年寿

遠野山伏系神楽では式五番の舞となります。

 

ひな祭りという事で、女性客が多く、神楽に馴染みの無い方々には、

こんな女性の舞もあるのかとPRには良かったのではないでしょうか。

 

休憩を挟んで、後半最初は同じく飯豊神楽さん

 

女舞いの年寿から、今度は荒々しい山の神舞

 

式六番で、山伏系では表舞最後の演目です。

 

宮古市の黒森神楽さんが、大槌町で公演した時には、このように撒いた米を

お客さんが、おまぶり(お守り)と称して大事に拾っていたのを思い出しました。

 

後半はお面をはずしますが、取らなければ女性だとは気づかないと思います。

 

女性でこれだけの山の神舞いを演じるのは、有るか無しかでは?

 

男性の神楽人も負けてはいられませんよ~!

 

と、云う事で、次回は最後です。笑

 

 

 


町家で楽しむ女子神楽 其の参

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今日は、昨日延ばした確定申告と別件のため、釜石へ。

その別件先で、お会いし御礼を述べたい方には会えず。

3.11以降、鹿児島県から派遣職員として釜石を拠点に勤務されていた方ですが、今月末で任を解かれるとのこと。

2014年6月に遠野郷八幡宮に太鼓系しし踊りが初めて奉納されましたが、

その折、偶然お会いしたのが最初で、その後、様々なお祭りでも会う事となり、

昨年は大出早池峰神社宵宮・例祭にも足を運んで頂きながら、どの場面でも落ち着いて話も出来ず仕舞い。

多々心残りですが、長い間、本当にありがとうございました!感謝申し上げます。

さて、

女子神楽話題も最後となります。

 

外山神楽さんの天女舞

 

約40年ぶりでの舞となるようです。

 

とらりら、とらりらと・・・思わず口ずさんでしまいそうになります。

この方の舞は、久しぶりで拝見しました!

 

女子神楽の最後は、飯豊神楽さんの木曽舞です。

 

昨年、秋田県内で演じて以来、ステップアップしたような感じがするのは私だけでしょうか・・・。

 

木曽義仲の源平合戦に登場する巴御前ですが、女性が演じると現実味が増します。

 

ここで僧が登場

 

舞手として観るのは初めてでしたが、早くから女性に門戸を開放した飯豊神楽ですが、

その草分けになる方のようでした。

 

女子神楽が始まる前に、その女性と保存会長に釜石ホールで観た写真のことを話した際、

それが全国青年大会に出演した時のもので昭和47年であることを、しっかりと覚えていたことにびっくりでした!

 

巴御前、最後の戦いとなります。

 

この舞では男性は一人だけで、他は女性

 

恐れ入りました!

 

舞が終了すると、飯豊神楽さんが先立ちとなり、神上げ

山伏系神楽らしく、法具をお返しし、

 

参加者・お客さん全員そろって、二礼二拍手一礼にて、女子神楽の終わりです。

この日は、市内外のお客さんが100名ほどで、遠野の神楽としては大盛況だったことを

付け加えて、終わりとします。

 

 

 

 

 

 

7年目の3.11

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東日本大震災から今日で7年、犠牲になられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

私自身が現在おこれている生活状況もまた、震災と同じ歩みとなりますが、

もうそんなに経ったのかと思うばかりです。

 

今年1月末のこと

下積み時代の先輩が南三陸町志津川におり、仮設住宅で暮らしていましたが、

昨年自宅を再建したとのことで、大出早池峯・六神石・遠野郷八幡宮の各神社のお札を持って行ってきました。

南三陸町は震災後、500名以上の方々が亡くなった地域で、中でも防災対策庁舎での被害は、

多くのマスコミに取り上げられ、深く記憶に残ります。

 

現在の防災対策庁舎の廻りはご覧のように嵩上げ工事が行なわれていましたが、

建物自体は宮城県が震災遺構として残す方針のようです。

犠牲者の数や防災関連建物での悲劇という点では、岩手県釜石市鵜住居町と似ている地域でもあります。

 

そして、 先日、3.11を前に数回に分けて陸前高田市から大槌町まで廻ってみました。

陸前高田市は、松原があった海岸線で防波堤工事が現在も進められおり、

山を削った場所には、多くの復興住宅団地や戸建て住宅が建ち並び、

 

世紀の嵩上げが終わった場所には、市立図書館とショッピングセンターを中心に、商店等が建設されています。

市の仮設庁舎も今後、移転新設するようですが、建設場所で市民の意見がわかれているとのこと。

 

大船渡市

2階までは確実に浸水したであろう商工会議所の建物の側まで、防波堤が建設されています。

ちなみに商工会議所の建物は別な場所に新設されていました。

 

また、ホテルや商店が建ち並ぶエリアも出来て、訪問した日のお昼には観光バスも停まっていました。

 

釜石市唐丹町小白浜

学校や復興住宅が完成し、津波で倒された防波堤の復旧工事が進められています。

 

同じく唐丹町本郷

津波が越えた防波堤の嵩上げ補強工事も終わり、港への接続道路が一段高い場所へ工事進捗中。

 

釜石市鵜住居町

本文最初の南三陸町でも取り上げた鵜住居町ですが、写真左側上の山を削り嵩上げした場所に

学校ができ、平地でも嵩上げ造成が終了した場所から順に復興住宅や戸建て住宅が

建設され始めているという現状です。

また、来年開催のラグビーワールドカップのスタジアム建設も写真右奥で急ピッチで行われていました。

 

最後は大槌町

お地蔵さんの目線の辺りに残る旧大槌町役場庁舎周辺には、大規模な復興住宅や業務系建物が

建ち始めています。

旧庁舎は今も直なお、解体か保存かで意見が分かれている町です。

 

また、大槌湾では防波堤工事が今も進められ、小鎚川河口の水門工事も同様。

 

JR山田線大槌駅

JR山田線は宮古駅から釜石駅までの区間が復旧すると三陸鉄道に移管予定。

来年には、このように鉄道全線、そして、三陸自動車道の宮古・陸前高田間、

さらには釜石自動車道花巻・釜石間の全線が開通となり、震災復興のハード面は終盤を迎えることになりますが、

 

一方では、多くの仮設住宅が点在しています。

その供給会社のうち遠野に出張所を構えていた会社の撤退も決まり、順次、解体撤去も進められるとのこと。

 しかし、その後も大変・・・

それでも、しっかり前に進むしかないんだと自分にも言い聞かせる笛吹です。笑

最後に

今回、三鉄平田駅そばで床屋さんをやっている友人のところへも廻りましたが、

幸いにも客用駐車場に車があり、会わずに通過しました。

幸いにもと云うのは、彼も被災し、店を再建して商売していますが、

来客があると云うのは、頑張って商売しているという証しだと思っているからです。

また、そのうちに、覘いてみたいと思います。

 

 

 

 

 

お知らせです!

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明日3月21日(水)、午前11時から遠野市小友町の長野しし踊りさんが

大東町大原の長泉寺で踊りを奉納するそうです。

 

長野獅子踊(以前の表示)は、東山大原長仙寺(長泉寺)より興庵篤隆と云う和尚が長野に西来院を

開創せしが、此の時、東山五書と云う友を一人連れ来り

慶長弐年の歳、東山五書長野に教え、子孫繁栄と踊り伝えたるものなり

獅子踊由来の巻物に記されています。

この縁をもって、明日踊るという事で、いわば里帰りということになります。

お時間のある方は、ぜひ、その様子を見に大原まで足を運んでみて下さい!

 

長野獅子踊り 報恩踊

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今朝の岩手日報に載りましたが、昨日は、お知らせしたとおりに大東町大原まで出撃。

 

目的地は、曹洞宗 亀峰山 長泉寺

ちょうど10年前に遠野に縁ある大原氏の足跡を訪ねて以来ということですが、

その時の様子はこちらから。

あらためて当時の様子を振り返ると、今も同じようなことを考えている自分にがっかりです。

少しは進歩したんだろうか?と自問自答(汗)

御覧のポスターは、おそらくお寺さんが段取りしたものだと思いますが、町内にも貼ってあるのを

長野獅子踊り関係者が目にしたそうで、なんだかうれしくなりました。笑

 

11時、お寺の入り口と思われる処から、踊り始め

前回も記しましたが、長野獅子踊りは、遠野市小友町の曹洞宗 清水山 西来院開創の折り、

大原長泉寺から来ていた興庵篤隆和尚の友、東山五書から慶長2年(1597)に教えられたものだと

長野獅子踊之由来にあることから、今回、その恩に報いるための踊りになります。

 

山門前へ

 

かっぱ渕で有名な遠野市土淵町にある常堅寺は、文明18年(1486)に、この長泉寺(その時代はの名前は永保寺)

五世太聞秀宗和尚によって開山(大東町教育員会編「大東町の寺院」 一休さんの室町時代です。

ちなみに延徳2年(1490)機外慶俊和尚開山という説もありますが、

慶俊は1468年に亡くなっているので文明18年だと思われます。

 

誉め唄

この常堅寺の末寺として小友町の長野の西来院は出来たのですが、開山した年が、いつだったのか

正確にわかる資料はないようです。

長泉寺→常堅寺→西来院ということだけは間違いないようですが・・・。

資料で古い物は遠野古事記のようで、阿曽沼氏の時代には平清水平右衛門が寺領を寄付していたが、

寛文年中(1661~1673)の住持は花輪彦左衛門重政(後、重信と称す)と云い、(実は南部利直の子)

理由不肖ながら、西来院の住職となり、一生を終える。とあります。

花輪彦左衛門は南部利直の次の次を継いだ重信公から、50石寄付の打診を受けますが、断り、

八戸から遠野へ移封となった八戸南部氏の時代も、平清水平右衛門と同じ5斗1升1合を頂き、幕末となります。

 

本堂前に進み、ひと踊り後、

 

保存会長が代表して、手を合わせる。

上閉伊郡小友村郷土教育資料によると、豊臣秀吉の北条攻め(1590)以降、旧葛西領(江刺も含む)から

小友に移り住んだと言い伝えのある家が相当数いる地域のようです。

今回、道々思いましたが、江刺・水沢・一関から人目を忍んで遠野へ行く場合、小友へ山越えし、

尚且つ、金山に紛れ込むという方法が無難だったのかもしれません。

 

保存会長の挨拶に続き、お寺さんを誉めます。

 

岩手日報の記事によると、今回のしし踊り参加者は、5~86歳までの23人。

ししの数が少なかったのは残念でしたが、檀家の皆さんにも気持ちは伝わったのではないでしょうか。

 

普段着の姿は、ごくごく普通の人達でも、衣装を身に付けると、しし踊り伝承者に変身!

そんな姿に惚れてしまう笛吹です。笑

 

長老を中心に太夫の方々

 

檀家さん以外にも、昨年12月、遠野市伝承園で行われた追悼の踊りに来たツイッター関係者も大勢いました。

 

最後は柱がかり

 

今年最初の出番だったと思いますが、なんとか踊りきったようです。

 

奉納が終わると、御花を差し上げた皆さんを前にして、投げ草

 

そして、記念撮影

今回、なぜ、私に声をかけてくれたのか、理解できた瞬間です。笑

 

帰り際、種ふくべさんとお話をしていた御嬢さん

いつの日にか、太鼓系鹿踊と同じように遠野幕踊り系しし踊りにも、女性のししが登場するのだろう

と、益々、確信した奉納踊りでした。

 

 

 

 

 

 

郷土芸能がつなぐ縁

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昨日は、本業でお世話になっている方の息子さんの結婚披露宴でした。

 

行った場所は大槌町浪板

 

黒いガードレールのある国道45号線の上には高台移転した住宅が建ち並び、

さらにその上には、間もなく開通すると思われる三陸自動車が整備されています。

 

会場は3.11にて被災した浪板観光ホテル健康亭

写真はその年の7月下旬のものですが、40歳まで所属できる某団体で面識のあった

当時のここの経営者のお一人も犠牲になりました。天皇皇后両陛下がご宿泊された処でもあります。

 

2013年に、「三陸花ホテルはまぎく」と名称も新たに再建。

震災後、美智子妃殿下が「はまぎく」をお持ちになり、「がんばりましょう!」のポーズをおとりなっている姿に

感動した人が多いのではないでしょうか。

あの「はまぎく」は、このホテル由来で、花言葉は「逆境に立ち向かう」

 

開演の時間です。

 

人前結婚式の後、祝辞となりますが、新郎側から遠野市上郷町の板沢しし踊り保存会長

新郎は6歳から釜石市の小川鹿踊りに参加し、中学生になる頃には、小川鹿踊りの本家である

板沢しし踊りにも参加と紹介がありました。

この中で新郎のお母さんも笛で参加していたという話をはじめてお聞きし、後で、そのお母さんから

笛吹さんは、私がしし踊りに出ている時は、いつも私の前を素通りしていたと云われ、大汗でした。

美人さんを直視できない性格です。笑

 

さて、お待ちかねの祝宴となり、新婦側から釜石市箱崎町の白浜虎舞さん

 

震災の翌年から青笹町の六神石神社例祭に出演していることで、私自身馴染みの虎舞いでもあります。

 

新婦のお父さんも踊りの甚句に参加

 

実は六神石神社例祭に最初に参加した年にもお出でになっていたようです。

 

新郎側からは釜石市の小川鹿踊りさん

 

代表の挨拶では、遠野から習ったが、仙人峠を越えてくる時に忘れたものがあり、

形が違っていますが・・・と云う話をいつも、されます。

おそらく、その忘れものとは、遠野のしし踊りにある刀掛けを意味していると思います。

 

新郎は虎舞いが披露された時には太鼓で、鹿踊りでは踊りでと芸達者

 

またまた六神石神社例祭の時の写真を確認すると、新婦が笛で、新郎が太鼓で虎舞いに出ていました。

新郎新婦共、郷土芸能を愛して止まないお二人という事で、

この結婚披露宴に向う車中、今日は芸能人の披露宴だ!と同乗していた方々が話していたことに納得。

 

新郎新婦そして両家のご両親共、美男美女と何ともうらやましい取り合わせでしたが、

出席者名簿を眺めながら、私と歳があまり変わらない新郎のお父さんは、随分頑張ってきた人生だと感心し、

両家のご両親が子供たちに注いできた愛情の深さに、これまた感動でした。

独身の娘二人の父親として、両家を観るとはずかしい限りです。汗

最後に、親の愛情と郷土芸能に育まれてきた新婚さんの前途に乾杯!おめでとうございました!

じじい呼ばわりされても、子供の笑顔が最高のしあわせだと思いながら・・・笑

遠野に移った葛西系の人々

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全く予定どおりにいかなかった3月も今日で終わり、大量に花粉舞う春到来!

4月から初夏になるまでは、計画済みの出撃以外は我慢して、本業に専念する覚悟です。笑

さて、タイトルの「遠野に移った葛西系の人々」ですが、

文治元年(1189)、源頼朝の奥州征伐により、いわゆる鎌倉武士たちが東北に地頭としてやってきますが、

その総奉行を務めたのが葛西清重です。

その後の南北朝期・室町時代を経て、葛西氏所領の地域に定着した葛西氏家臣およびその系列の武士たちを

ここでは葛西系とします。

 

先の21日に長野獅子踊りが報恩踊りを披露した一関市大東町大原は、

葛西家臣大原氏の居た地域と云う事で、以前から大変興味のある地域でもありました。

長泉寺の大きな庫裏

天正10年(1582)、豊臣秀吉の天下統一に先駆けて、小田原攻めとなりますが、

その際、参陣しなかった武士達は所領没収の憂き目に遭います。

葛西氏や遠野の阿曽沼氏は参陣せず、阿曽沼氏は蒲生氏郷のとりなしにより、

領地はそのままながら南部氏の附庸となり、葛西氏は没収。

 

大原の町並み

遠野では小田原攻めから、寛永4年(1627)に八戸(南部)直栄公が領地替えで移動して来るまでの45年間、

領民・武士共に落ち着かない殺伐とした時代になります。

 

大原山吹城二の丸

天正15年(1582)、葛西宗家に反抗した葛西家臣江刺重恒は、重臣菊池右近、太田代伊予に意見され、

伊予は討たれ、右近は遠野に逃れます。後に、平清水・新谷などと名乗る本姓菊池の祖です。

今でも遠野と江刺には、菊池さん、菊地さんが多くいますが、皆な皆この系統だとは云えないようで、

天正15年以前から遠野には本姓菊池を名のる武士が多くいたようです。

(私は、南北朝期以前から菊池さんが居たと思っていますが)

 

山吹城から見る大原の町並みと室根山

翌天正16年(1583)、先の江刺重恒の妹婿である米ケ崎城の浜田(本姓千葉)安房守広綱が、

主家葛西氏の指示により志津川の本吉氏に討たれます。そこで生き延びた浜田氏四男清春は落ち、遠野へ。

 

大原長泉寺本堂

天正18年(1590)、秀吉の奥州仕置後に宮城県北・岩手県南地域を任せられた木村氏に対し、葛西系、大崎系の

武士たちが反乱を起こします。(葛西・大崎一揆)

そして翌年の九戸政実が秀吉軍によって討たれることで東北の形勢が決まってしまいます。

この最後の勝負で敗退した葛西系の武士たちは、農民になるもの、商人になるもの、仕官を求めて移動するもの

と、大きな選択を迫られ、その中からも遠野に移動する人達が出てきます。

 

大原新右衛門もその一人です。

文明18年(1485)(開山には諸説あり)に大原長泉寺の末寺として開山したカッパ渕脇の常堅寺は、

その年に大原弾正勝行が開基したと云われています。

大原弾正勝行は大原新右衛門とも称したと書いている文章もありますが(私もそうでした)、

証明できる資料で確認できていません。また、新右衛門も勝行も大東町史の大原家系図では見当たりません。

また、文明18年に開基できるほどの領地を勝行が遠野に持っていたという資料も見たことがありませんが、

その大原氏が落ち延びて来た時に所持し、常堅寺に奉納したという道元禅師座像が今も残っています。

また、慶長11年(1606)横澤某が大旦那の徐災・延命と大原勝三郎の長命を祈願する旨を記し、

松崎養安寺に奉納したと思われる観音立像が、現在、松崎観音堂に安置されています。

 

常堅寺墓地の大原氏墓碑

慶長19年(1614)、大阪冬の陣となりますが、南部方として遠野から参戦したのは、

上野右近名代久右衛門、板澤平蔵、達曽部彌兵衛、大原新右衛門、小友喜左衛門、新里平蔵、宮守主水、

遠野小組(高屋四郎左衛門、及川覚兵衛、宇夫方太兵衛、末崎民部の四人を遠野小組四騎と云う)

小友氏は本姓菊池旧江刺家系、高屋氏は旧江刺家臣、及川・末崎氏は旧葛西系

時期は別にして大原氏同様に遠野に移り住んだ人達です。

 

大原長泉寺のお地蔵様

阿曽沼氏没落後に城代を務めていた平清水駿河、上野右近が亡くなり、三戸南部氏から派遣された

毛間内三左衛門、槻舘左兵衛の交代制二城代から、寛永4年(1627)八戸(南部)直栄が遠野へ領地替えになります。

遠野古事記には、その頃まで居た三戸南部家臣の居住地と名前が記されていますが、

阿曽沼旧臣以外で寛永11年の(三戸)南部氏寛永支配帳(HP近世こもんじょ館より)にある関係者をすり合わせると

葛西浪人大原新右衛門(300石)、葛西浪人浜田彦兵衛(300石)、葛西浪人高屋四郎左衛門(50石)、

江刺浪人大町宇衛門(100石)までは、寛永支配帳に名前・石高あり

古事記には葛西浪人欠下茂左衛門の他、近世こもんじょ館を参照すると栃内主計、本宿因幡が、

江刺、気仙からやって来たことがわかります。

この中で、大原氏は後年の三戸南部支配帳には見えず、一代限りだった可能性が高く、

浜田彦兵衛は、本文前半の天正16年に登場した浜田清春本人です。

このように阿曽沼氏没落後、八戸(南部)直栄移封までの間、横田城(鍋倉)及びその周辺で主力となっていたのは、

移動して来た人達だったことがわかりますが、その多くが八戸直栄移封前には、三戸南部氏のもとに再移動します。

 

大原長泉寺の涅槃図

最後に、今回近世こもんじょ館の「盛岡藩士の家系」で見つけた興味深いもの

「葛西正兵衛家」

葛西晴信は牡鹿、登米、本吉、気仙、磐井、江刺の七郡と桃生郡東部、栗原郡東北部を領有し、

登米郡寺池城にあったが、天正18年豊臣秀吉の小田原征伐に参陣せず改易となり滅亡。

この時、妻子四五人は家臣宮沢藤兵衛を俱して登米に落ち、閉伊郡遠野に潜居。

宮沢藤兵衛の扶助を得て同地に死去した。その子勝兵衛晴勝は父晴信と共に遠野に隠れ、

藤兵衛の介抱により年除を送ったが、慶長3年主従三戸に到り、南部家の客分となった・・・。

と、ありました。

 

土淵町飯豊には、旧蹟舘神神社の石碑があります。

此の舘神神社は此れより北方十六間ばかり隔ちたる杉の中に葛西氏の一族を祀れる御舘神神社と

伝説ある一堂宇ありしが、開田工事に際しお堂の床下より二柱の御骨発掘されたるを何所に奉斎せるや

不明にして殆ど殲滅状態にあるを痛惜する一有志菊池寅蔵が理想郷発展を祈願し斯の碑を建立し

永世に旧蹟を保存せんとす。 昭和34年旧4月8日

この石碑のある土淵町飯豊には宮沢という地名・苗字があり、高貴な人(地元では天皇と伝承)が

来住した処だと云われています。この言伝えの高貴な人が葛西氏主従一族だとすれば、

素性を明らかにせず暮らして当然であり、後に三戸に移ったことで、地元ではいつのまにか居なくなった

と云う話になっても不思議ではありません。また、その葛西氏が住んでいた場所付近に亡くなった妻子を葬り、

その後地元の人達によって舘神として祀られるようになったと考えるのはどうでしょうか?

ちなみに飯豊から道一本先の地域に大原氏ゆかりの常堅寺があり、大原新右衛門が先に三戸南部氏に仕官

していたということも関係あるのではないでしょうか。

葛西家臣宮沢藤兵衛と同じ姓の宮沢氏は後に八戸(南部)弥六郎家臣になり、同じ姓の方々が、

ここ飯豊と上郷町平野原に今も居ますが、幕末の安政年間(1854~1830)に平野原の宮沢長兵衛宅で、

士族水越丹左衛門が私塾を開いたと「上郷聞書」にあります。

水越氏もまた、同じ時代に葛西系武士として遠野に来た一族です。

ここ数日、なんども、エラーを繰り返し、やっと、入力完了という事で、心置きなく本業に専心します。笑 

遠野の桜は秒読み?

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4月もあっという間に中旬

 

昨日は釜石市中心部と大槌町との間にある鵜住居町へ

 

昨年あたりから順次、嵩上げ工事が完了した場所では、住宅が建設されていますが、

この日は遠野に嫁ぐ娘さんのところに仮住まいしていた方の地鎮祭でした。

先立たれた奥さんの眠る菩提寺そばで余生を送る決断をしたようです。

 

先週あたりから咲き始めた釜石の桜も天気次第では、数日で満開になるのでは?

一方、遠野はと云うと、新張にある某タイヤ商会さんの桜が一輪咲いたということなので、

気温が上れば、あちらこちらで開花宣言すると思います。

 

さて、

 

先日、発行されたばかりの遠野南部家御用留書を手に入れ、古本屋さんからは定本附馬牛村誌を、

と云う事で、本業に勤しみながらも、頭の一部では空想の世界を徘徊。

 

お不動さん

 

そんな折、拙案内所に顔を出してくれた「さごみの木」さんが、気になることを教えてくれました。

昔、附馬牛に白山神社があったと。

早速、定本附馬牛村誌を確かめると、張山にあり、白山妙理大権現と号し、創立年代不明。

文化14年(1817)に修復(松田氏、導師意楽院)した棟札が残っている。

文政11年(1828)の棟札には、大旦那南部彌六郎源義堯、小檀那松田忠左衛門とある。

また、同書には寛永9年(1632)の家臣分限帳からということで、附馬牛に宛がわれていた20人の中に、

30石、松田与右衛門とあり、八戸南部氏移封当初から松田氏が管理していた処だと考えられます。

 

この白山、手持ちの地図には確かに鳥居のマークがありましたが、現地を確認すると鳥居は無く、

周辺には二つ上の写真のお不動さんと、上の写真のお稲荷さんかお不動さんと思われるものだけ。

その辺りの家々を訪ねるも、不在で、あきらめかけた時、トラクターで作業中の第一村人発見!

田んぼまで駈けて行き、事の次第を話すと第二村人を方を紹介され、

 

その方曰く、昔はこの辺りに白山と八幡の二社があったが、今は何も残っていないとのこと。

棟札の松田氏の話をすると、そのおじいさん、「うちも松田だ!」笑

附馬牛町に居る松田さんを意識したことはありませんでしたが、確かにこの地域には数軒の松田さん。

神社を管理していた本家筋の松田さんは、遠野の町に引き払ってしまったようで、そのまた本家については

全くわからないということでした。

 

近所の家にあった絵馬、今残っている神社に納めるには大きすぎると思い、かつてあった白山の大きさを見ると

拝殿が二間に一間半ということで、もしかすると、その白山か隣接した八幡にあったものかもしれません。

ところで、ここに登場した松田忠左衛門と与右衛門さんが気になります。笑

八戸南部氏が遠野に移封される前の家臣名を見ると松田姓はただ一人、松田雅樂之丞です。

手持ちの寛永11年支配帳では松田雅樂30石、横田村、片岸村とありますが、

定本附馬牛村誌にある寛永9年には、雅樂の他に与右衛門がいたことになりますが、

どちらも30石とあることから、同一人物かもしれませんし、知行地の村名が違うことから二名かもしれません。

阿曽沼興廃記や遠野古事記には、松田雅樂の他、鱒沢氏関連で紫波からの松田氏が見えますが、

石高から考えると雅樂関係の松田氏ではと想像しています。

しかし、

よその人の事ばかり調べていないで自分のところも調べろよと思う方もいるかもしれませんね。汗

我が家の人物家系図は既に作成済なので、ご安心下さい。笑

それでも、ひとつ気になるのは、馬の糞とも云われるほど居る我が家の笛吹姓(仮名)、

 

明治になった時、その地域の和尚さんが、地域ごとに同じ姓を名付けたという話も聞きますが、

 

先祖は江戸時代から〇〇町居住で、この〇〇町で笛吹姓を名のる家は、同町別集落に多く、

なぜ、ひとつの家だけが、名のったのかと・・・。

この馬の糞と云われる笛吹姓、秀吉の奥州仕置以後に、江刺方面から移動してきた方々が

確認できますが、仕置以前の阿曽沼氏の旧臣にも本姓笛吹を名のる人物も見られ、

一概に江刺方面から全員が移動してきたとも思われず・・・。

また、阿曽沼氏の代官として、最初に宇夫方氏と高屋氏が来たという伝承がありますが、

その高屋氏は後の歴史にしばらく現れず、やはり、奥州仕置以後に江刺浪人として遠野に出てきます。

これらのことを合わせ考えると、藤原(阿曽沼)秀親所領の中にある、

一、陸奥国遠野保地頭職事

一、同国江刺郡内角懸郷半分地頭職事

に、関係するのではないかと、またまた妄想しているこの頃です。笑

さあ、今晩は居住する地域の自治会総会なので、ガス抜きを兼ねて懇親会まで参戦です。汗

 

 

 

 

 

 

 

 


遠野に移った葛西系の人々 其の弐

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昨夜は、住まいのある地域の自治会総会でした。

 

今年は役員改選期ながら、続けて自治会長になられたのは、震災で遠野を終の棲家に決められたTさん。

以下、役員が若干、交代したものの、自治会長を中心に盛り上げようという気持ちが伝わる総会となりました。

総会後は、ビール党に、日本酒党、そして焼酎党と各党入り乱れての懇親会となりましたが、

無党派の私は、三種類、ブレンド状態となり、朝まで爆睡。汗

 

我が家の猫の額には、春のバレリーナが咲き始めました。

さて、

遠野に移った葛西系の人々其の弐ということで、今回は浜田(濱田)氏

浜田姓の人物が遠野で確認できる最初はと云うと、おそらく、遠野古事記。

豊臣秀吉の天下統一以降、三戸南部氏の附庸となり、先君阿曽沼氏無き後、遠野の城代を務めていたのは

上野右近広吉ですが、その右近が亡くなった(1621)後は、三戸南部氏から派遣された毛馬内・槻舘二人の

交代制城代の時代となります。

その頃、城下諸氏屋敷に住んでいた人達の名前の中に、500石、葛西浪人、浜田彦兵衛がいます。

遠野に住んでいても、三戸南部家臣ということになります。

いつも参考にさせて頂いている近世こもんじょ館には、

濱田彦兵衛清春 葛西一族濱田安房守重正男 没落後閉伊郡に潜宿し、信直公に仕へ

七百石、大槌城代、寛永十六年卒

とあり、清春の息子は300石となり花巻へ移動し、幕末まで南部家臣として続いたようです。

 

桜が咲いたらしいということで午前中お邪魔した大工町の善明寺、花は確認できませんでしたが、秒読みです。

 

陸前高田の広田湾周辺を治め、米ケ崎城主だったのが浜田氏。

遠野にも関係ありそうな時歴を見ると、秀吉の小田原攻めから6年目の天正16年(1588)、

浜田安房守に呼び出され、世田米城の浅沼(阿曽沼)甲斐と息子の中務が討たれます。

世田米浅沼氏と遠野阿曽沼氏の血縁関係は定かでありませんが、同族だったことは苗字に現れています。

この時代、浜田氏、江刺氏、世田米氏、遠野阿曽沼一族は、其々、某かの婚姻関係にありながらも、

伊達と南部に挟まれ、どちらに組するかで揉めていた時代でもあります。

天正18年(1590)、宮城県北・岩手県南地域で葛西・大崎一揆が起こり、葛西・大崎旧臣の多くが没落。

慶長5年(1600)関ヶ原の合戦となり、遠野では政変により遠野を追われた阿曽沼氏が

伊達政宗の後援を受け、上郷町赤羽根、住田町平田で遠野奪還の戦いを挑みます。

その戦いに阿曽沼氏側の人物として住田町の上有住城主だった浜田喜六がいますが、ここで戦死。

喜六は浜田安房守広綱の弟だと云われています。

この時、浜田安房守広綱が、どこにいたのか確証を得る史実はありませんが、

時間は前に戻り、天正16年(1588)に浜田安房守が気仙沼方面へ進出し、主家である葛西氏に鎮圧されますが、

その時いた安房守四男清春は、後に南部氏に仕えるという文章が見られることから、

濱田彦兵衛清春が遠野に移った時代は、1588年から上野右近死後の1621年の間が、まず考えられます。

次に彦兵衛が信直に仕えたということで、信直の在任期間を見ると天正20年(1592)から慶長4年(1599)

であり、1588年~1621年を1592年~1599年に絞れ、阿曽沼氏の遠野奪還の戦い時点で、

遠野に潜宿していた可能性がありますが、その時の弟喜六との関係がわかりません。

 

松崎町光興寺にある阿曽沼氏歴代の碑周辺は例年、桜と芝桜がきれいに咲きます。今はまだ咲かず。

鎌倉時代から江戸時代直前まで続いた阿曽沼氏歴代の墓碑、その多くがどこにあったのか、

菩提寺がどこだったのか謎です。

濱田彦兵衛清春の由緒では父親は広綱ではなく重正で、どちらも安房守ですが、

重正に関する文献が見当たらないのが気になります。はたして、広綱の四男だったのか、

広綱の兄弟重正の子だったのか・・・。

確実なのは、八戸直栄・清心尼公が移封される寛永4年(1627)以前の慶長18年(1613)には既に

大槌代官としての仕事をしており、禄の多さといい相応の人物だったと思われます。

遠野古事記では、その在住時代、彦兵衛は南舘に住む大原新右衛門の次に記され、

居住地名が空白となっていますが、その書き方を見ると大原氏と同じ南舘に居た可能性があります。

南舘は鍋倉本丸の南側を意味するのでしょうか・・・

 

阿曽沼旧臣、葛西旧臣が天正・慶長の波乱の時代駆け抜け、八戸から移ってきた遠野南部家臣もまた、

幕末以降に、激動の時代を歩み、その末裔は先祖同様に新たな場所を求め移動、

また関係子孫としての苗字を名のり、ここにいる者もあり、といった具合でしょうか。笑

彦兵衛が遠野に居た時代はそれほど長くはありませんが、その間、知行地としていた場所を縁として、

同姓としたと考えるのは如何でしょうか。 

さくら咲く

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4月18日辺りから遠野の町中でも桜の花が咲き始め、今日は気温が20℃を超え、久しぶりにワイシャツ一枚です。

 

大工町善明寺 開花

今回は、春の遠野画像を交えながら、江戸時代初頭前後の元和7年(1622)~寛永4年(1627)辺りの

遠野について

遠野古事記には、この頃の城下諸氏屋敷にいた人物が記されています。

 

松崎町白岩 白幡神社 開花

 

城代、毛馬内三左衛門(500石)、同じく槻舘左兵衛(500石)

葛西浪人大原新右衛門(800石)、葛西浪人浜田彦兵衛(500石)、細越与三郎(300石)、駒木隼人(300石)、

西風舘典厩(400石)、平倉平蔵(200石)、宮森助十郎(400石)、葛西浪人高屋四郎左衛門(200石)、

江刺浪人大町宇右衛門(200石)、白岩嘉兵衛(120石)、江刺浪人人首監物(初め無録)、

葛西浪人欠下茂右衛門(300石)、平野原久兵衛(50石)、木下半兵衛(100石)、伝勝寺、

五日市又五郎(30石)、栃内主計(70石)、畑中久七(100石)、沼荒次郎(100石)、本宿因幡(150石)、

中沢外記(50石)、菊池五郎太(50石余)、金新助(35石)、畑中久兵衛、菊池理兵衛(70石)、

浅沼六右衛門(40石)、飯豊又右衛門(60石)、宮沢十三郎(70石)とあります。

ここに書いていませんが、妙泉寺(135石)、東禅寺(240石)が寺領を得ていたようです。

これらの禄は阿曽沼氏からではなく、三戸南部氏から宛がわれたものです。

 

駅前 旅の蔵遠野

 

先ほどの石高を合計すると城代2人1,000石+諸氏4,695石+寺領375石=6,070石

寛永4年の八戸直栄移封時の遠野ぶんだけの石高は9,927石なので、3,857石ぶん残っています。

三戸南部氏の直接蔵入領ということも考えられますが、少なくても、それを管理する地頭のような人も必要なわけで、

その辺が気になります。

 

今日はSL銀河の営業運転初日

 

カリンちゃんもお出迎えです

 

その時代に遠野に関わりあるその他の人物を探ってみます。

1.阿曽沼忠義の人、火渡玄浄こと附馬牛中務入道玄浄の息子に附馬牛内蔵人がいます。

後に300石宛がわれ、山口村(土淵)に移り山口新助と名乗ります。

2.閉伊郡細越村内城の内城四郎左衛門吉昭(本姓菊池)の息子吉輝が50石

3.小友の新谷帯刀、阿曽沼政変に登場した平清水駿河の弟で60石

4.古事記にあった葛西浪人高屋四郎左衛門の叔父で柏山浪人下川原玄蕃恒忠も一時遠野におり、

後に花巻に移動し100石、但し、同族二名はそのまま遠野で八戸直栄の家臣

5.末崎清右衛門、阿曽沼時代には金切割の采配を許されていた重臣という文章がありますが、50石

私は気仙浪人としていち早く遠野に移ってきた人物だと考えています。

6.長瀬善太夫儀政、閉伊郡長瀬村(土淵か)に生まれ氏とする。後に相撲行司として仕える。

7.新里平蔵は大原新右衛門、末崎清右衛門、高屋四郎左衛門らと大阪冬の陣に従軍しておりますが、

この時期の事歴は不明。

8.小友喜左衛門は新里平蔵同様、同じ時代に及川氏も小友に居ながら、三戸南部家臣になった形跡無し

9.船越与三郎、土淵に150石

手持ち資料で確認できるぶんなので、その他にもいるかもしれません。

1~9までで、遠野領地ぶんとして想像できそうなのは610石(小友、下川原は除く)

まだ3265石、埋まりません。笑

 

SL銀河初日のお出迎えは、綾織しし踊りさんでした!

 

駅前の後は、とおの物語の館でひと踊りでした!

 

次に登場人物と関連ある地域を組み合わせてみます。

 附馬牛町(696石)は、妙泉寺、東禅寺の寺領の他は山口新助が移動しており、空白地。

土淵町(1279石)には、五日市又五郎、栃内主計、本宿因幡、飯豊又右衛門、宮沢十三郎、

そして船越与兵衛、大原新右衛門。

上郷町(627石)には細越与三郎、平倉平蔵、平野原久兵衛、内城冶兵衛吉輝。

小友町(591石)には新谷帯刀。(小友氏と及川氏については遠野関連として三戸南部家臣に名前がありません)

宮守町(1216石)の内、達曽部は大迫代官所管轄になるのではずします。宮森助十郎、浅沼六右衛門(?)

綾織町(1822石)は西風舘典厩、新里平蔵。

青笹町(647石)には中沢外記のみ。

松崎町及び遠野町(残り)には、浜田、駒木、高屋、大町、白岩、欠下、木下、畑中など地名や苗字等を考慮して

居たであろう人達を乱暴にも、うひとくくりにすると

小友町と青笹町そして附馬牛町が少ないようですが、金山との関係から小友町をはずすと青笹町と附馬牛町。

647石の青笹町に中沢外記ただ一人ということは無いだろうと思いますし、菊池五郎太が仮に青笹の人物

だったとしても50石なので、まだ誰かが居そうです。また以前記した会津からの松田氏のように、阿曽沼時代の

後期には客分として附馬牛に入ってきた人もおり、元家臣が先行し、後、主家がそこに仮住まいすることもありで、

様々な人が混在していたと思われます。

 

とおの物語の館で記念撮影

 

登場人物の苗字を見ると気付くかと思いますが、本姓は別にして、在住地・領地を氏として名のる人が多く、

寛永4年、八戸直栄が遠野に移ってくる頃には、その多くの人が在地苗字のまま三戸・盛岡に移動します。

南部藩参考諸家系図にある遠野関連の人達を見ていると面白いのは、その後も含め、

遠野時代に其々が、某かの婚姻関係にあり、また、遠野にも三戸・盛岡にも、其々同族が存在する

ということになるようです。

 

一日市通りの伊藤家

 

食堂部分の運営者がバイパスの「ばんがり」さんに変りました。

「おたおらでひとり食うも」と云うメニューが気になります。笑

 

店内にあった写真・・・・えずこ

子供が入っている道具のことですが、昔はどこの家にもあったかと思えば、そうでもないようで

いわゆる良い家にしか無かったそうです。

 

遠野には江戸時代から続く家が多くありますが、其々の苗字には歴史ヒストリーがあります。

南部藩参考諸家系図には多くの人が載ってあり、菊池さんや佐々木さん、阿部さん、佐藤さん以外でしたら、

南部藩家臣にある苗字を基に調べてみるのも面白いと思います。

 

 

菩提寺総会と花見

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例年、春の彼岸中日に行われている菩提寺の護寺会総会でした。

 

震災の年の4月に焼失し、先代住職も亡くなられ、それから護寺会役員そして同系の光明寺さんをはじめ

近隣のお寺さんのお世話になりながら、お孫さんが後継住職となり、昨年、やっと本堂・庫裏等が完成。

その報告を兼ねた総会となりました。

 

いつもは本堂隣りの会館での総会ですが、今年は本堂での開催。

議案が多かったこともあり、長丁場となりました。

細かな点での不備はあったようですが、おおむね賛同できる内容で、本来であれば、

ここまで頑張ってこられた役員さん方にご苦労様の拍手でもしなければならなかったと思います。

気持ち良く終わり、ねぎらいの気持ちをもって懇親会となるはずでしたが、

ひとつだけ残念なことが・・・

人として道義的に如何かと思うような意見もあり、思い出すだけで腹が立ってきます。

一問一答方式で進めると、どこまで行っても意見を述べた者勝ちとなる運営は好ましくないようで、

意見に対する反対意見も聴取する必要があるように感じました。最後は採決でしょうが。

 

どことなく気持ちがすっきりしないところで、同級生のお花見に参加です。

桜の花が咲いている時に外でジンギスカンにお酒

遠野人が描く最高のお花見です!笑

 

途中で記念撮影

 

昔の女子もハイ、ポーズ!

 

知恩寺の桜も満開です

 

地域内の菩提寺檀家さんの会費徴取やら案内所のある通りの会計、連休明けは別団体の会計監査と

5月連休明けには、総会・総会

本業も思うように進めない状況が続いていますが、連休まで残すところ一週間

鬼のように働きたいと思います。

ところで

前回記した遠野関連の人物にもうひとり、勝又彦右衛門

天文年中、葛西左京大夫晴信に仕え3,000石を領す。天正18年葛西氏没落の時、浪人となり花巻に潜居する。

利直公の慶長11年召し出され、元和8年遠野の内佐比内村に200石を賜う。

寛永4年八戸弥六郎移封により稗貫郡大田村矢沢村に替地を賜う。

まだ桜咲く遠野

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桜が咲き始め、見ごろだったはずの昨日、おとといと雨模様だった遠野ですが、

今日は雨もあがったようなので、お昼前に所用と合わせてその様子を見に行ってきました。

 

下組町西はずれの卯子酉神社の桜

猿ケ石川・早瀬川沿いの桜も今週末まではもちそうです。

さて、本日の話題は、

関ヶ原合戦の前年、慶長4年(1599)に三戸から盛岡に南部氏は移り、盛岡城初代城主になるのが南部利直公。

寛永9年(1632)に重直が跡を継ぎます。(ちなみに利直の先代が信直)

遠野郷八幡宮が松崎町宮代から現在地に遷座した寛文元年(1661)、大変な出来事が起こります。

重直公は目隠しをして、侍帳に記されている藩士の氏名を無作為に墨で消し、42名を解き放しとします。

その中には遠野に関係しそうな人達も含まれていました。

堀切兵庫、大町宇右衛門、石橋新兵衛、上野久兵衛、飯豊又市、五日市左近、 他

 

猿ケ石川の桜

 

遠野古事記に、同心勤めの御用が繁多になり、追加の50人を二組に分け、御譜代御同心を小頭にして、

盛岡家中浪人、興津八郎右衛門(子供八郎右衛門の代に氏を堀切と改める)、

人首平右衛門(孫平右衛門の代に大町と改める)を御当家に召出した時に支配頭を仰せ付けられ、

新しい屋敷を割出し、これを上同心と称す。とあります。(これが上組町の始まり)

 

42名解き放しの中に堀切兵庫という人がいます。

盛岡藩参考諸家系図(以下諸家系図)には、一戸摂津守義實支流 堀切某 信直公に仕える。

息子堀切兵庫 利直公の時に家督、岩手郡堀切村に200石給う。重直公の承応2年罪有りて禄収られ、

八戸弥六郎に預けられる。後、赦免により尚八戸氏に居り、後に八戸氏願にてその家臣になる。

兵庫辞して隠居し、その子勘三郎を八戸氏に仕わしむ。 弥六郎より50石を領す。

とありますが、承応2年は寛文の誤りで、罪有りてというのは目隠し事件の事で、無実です。

 

宮守町鱒沢 猿ケ石川南岸

次に興津八郎右衛門ですが、遠野古事記に二城代制の項に江刺浪人200石の大町宇右衛門が出てきます。

同じ古事記には平右衛門と宇右衛門の二つの記述がありますが、近世こもんじょ館の盛岡藩士の名簿には

宇右衛門となるので、興津(大町)宇右衛門が正しいようです。天正の動乱で浪人となり、隣りの江刺から

遠野へ移り、後、三戸・盛岡に移動し、また遠野へということになるようです。

 

花の命は短いと云いますが、5月の連休までは難しいかな?

三人目は石橋新兵衛について

諸家系図では 石橋新三郎 利直公の時に召出され、鹿角郡谷内村に200石を給う。慶長6年春、

岩崎の陣の時、赤袰使番を勤める。後に鹿角御境役。重直公の時、同郡槇山で初めて金を産す。

その山御境付きにより金山奉行を兼帯す。

新三郎の娘婿は八戸弥六郎内石橋兵部二男の新兵衛定次で、重直公の時家督。

孫の石橋吉武も同時期部屋住にて御小姓を勤めていたが、寛文元年祖父定次死して家督を賜らず、

御小姓を御免、浪士となる。(別に家督の後故有りて禄収られるとの説あり)

子孫八戸弥六郎家臣となりて遠野に在り。

石橋兵部が先に遠野にいて、後に新兵衛の孫吉武が同じく弥六郎家臣になるように書かれていますが、

系図上よくわからない部分もあり、本当に先が兵部で、後に吉武だったのか疑問です。

いずれ、藩の名簿では石橋新兵衛ということで、遠野に移ったきっかけは目隠し事件になるようです。

明治2年の弥六郎家臣には2名の石橋氏があります。

 

宮守町鱒沢 猿ケ石川南岸

4人目は上野久兵衛

諸家系図では阿曽沼氏後の城代を勤めた上野右近の孫に与三郎(廣易)があります。その与三郎の二男が

上野久兵衛廣定で、その息子が九右衛門廣久となり重直公の万治元年父廣定が死んだ時、幼少により

禄を収られたが、家筋を思召し、世子行信公の御小姓となる。とあります。

万治元年は寛文元年の間違いですが、目隠し事件が万治元年だったという説もあり、禄収られと云うのは

やはり、目隠し事件を指しているようです。

 

松崎町 阿曽沼公歴代の碑前

5人目は飯豊又市

近世こもんじょ館の盛岡家臣名のふりがなでは「いで」。後の時代の家臣名には無いようです。

遠野古事記に飯豊又右衛門があり、利直公の時に仕官したことがわかりますが、八戸弥六郎家臣にも

飯豊姓は見られないことから、目隠し事件後、そのまま浪人となったのでしょう。

飯豊のよみが「いで」ですが、遠野では「えんで・いんで」と云うことから生じた「いで」だと思われます。

そこで気になるのが「井手」(いで)ですが、もしかしたら「飯豊」から変化したものではないでしょうか?

元々いた飯豊から三戸・盛岡へ移動し、戻ってきてからは井手という可能性はあります。笑

 

松崎町 村兵稲荷境内

6人目は五日市左近

遠野古事記に五日市又五郎が出てきます。諸家系図には、本姓浅沼 紋五木瓜内唐花

五日市政左衛門 利直公の時に召出され300石を給う。息子又兵衛宗定、重直公の時家督。

後御者頭を勤め足軽30人を預かる。後、故有りて禄収られ浪人。妻は松田与右衛門の娘とあります。

浅沼は阿曽沼一族鱒沢氏の本姓であり、松田与右衛門が附馬牛に30石領していた八戸弥六郎家臣の

同姓同名の人物だとすれば、土淵町の五日市にいた又五郎に関係するものと思われます。

 

雨中の鍋倉山

その他に栃内門兵衛

諸家系図では江刺某の二男栃内勾當閉伊郡栃内に住して氏とする。その息子小左衛門茂廣、利直公の慶長の頃

召出され閉伊郡栃内村に100石を給う。寛永4年八戸弥六郎遠野移封の時、現米25駄を賜う。

(娘は小友に一時住んでいた松田検校に嫁ぐ)さらに息子小左衛門廣任は重直公の時家督。

後命により郡山(紫波)に移住す。とあります。門兵衛ずばりの名前はありませんが、

御命により移住の意味が目隠し事件を指すと思われます。

他にも北村金左衛門がおり、諸家系図に八戸弥六郎内北村三郎左衛門という名前が見られますが、

後の弥六郎家臣帳に北村は無いように思いますが、いずれかの書き物で、北村を見たような気もするので

後日にでも追ってみたいと思います。

さらに末崎清右衛門、近世こもんじょ館では「すえさき」とあり、遠野では「まっさき」。

清右衛門はてっきり遠野の「まっさき」だとばかり思っていましたが、どうやら違うようです。

しかし、その後の時代に盛岡家臣に末崎が見えないようなので、そのまま浪人となったか、

やはり「まっさき」となったかは不明です。

しかし、42名中に遠野関係でこれだけの人数、三日月も丸くなるまで南部領と云われる中では高確率。

到底、目隠しをして決めたとは思い難しです。笑

 

 

 

 

 

 

2018 遠野さくらまつりと遠野城下町割図

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今日は連休の中休み?中仕事?でしたが、気温も20℃を超え、日の当たらない案内所にいるのは苦痛でした!笑

まずは、世の中GWということで、例年5月開催の遠野さくらまつり話題から・・・

 

そのさくらまつり

今年は桜の開花が早くなるということで4月29日(日)に変更となり、

釜石市唐丹町の天照御祖神社の式年祭(さくらまつり)へ行けませんでした。涙

 

前日は自宅のある地域のお花見で、二週続けてのジンギスカン!

頭スッキリという状況でもなかったので、カメラの設定を確認しないままで挑んだ結果、ブレブレの連発。

 

期待していた郷土芸能も大工町の遠野太神楽のみということで気分は下げ下げ・・・

 

とは云え、IBCアナウンサーの菊池雪見君、見たさに・・・汗

「祝!菊池雪見公、御国入り!」の横断幕でも持っていてば良かったと、少しだけ後悔・笑

 

馬上から、懐かしい顔を見つけては、良い笑顔で応えておりました。

 

また、行列には、雪見アナが高校時代にお世話になったであろう通称「鬼の昆」先生が医者役

理系に進んでも、百人一首を覚えさせられたのには苦労しました。笑

 

そして、本日は、

 

遠野城下町割図

遠野市立博物館で展示中です!

手持ち資料とは、また別な地図で、仕事をさぼって見に行った甲斐がありました。笑

そのついでに図書館にも廻り、またまたひとつ勉強ができました。

前回にも取り上げましたが、二城代制時代の城下諸氏屋敷にいた人物で、今回は

高屋四郎左衛門

阿曽沼興廃記では、遠野から大阪冬の陣へ出陣した人物で遠野小組と呼ばれた中に

高屋四郎右衛門とあります。

平成24年発行の私本阿曽沼興廃記には、高屋を「たかや」と読み仮名がふられていますが、

南部藩関係の近世こもんじょ館の家臣名では、「こうや」とあります。

どちらの「高屋」も同じ一族だと思われますが、読みの違いが生じるのはなぜ?

八戸直栄公が遠野に移るまでの間、後の沢里屋敷に居た人物です。

 

現在の遠野市民センター周辺

南部藩参考諸家系図の高屋氏を見ると

三位兵庫頭源頼政二男を祖とし、高屋八郎右衛門、高屋左近などの代を重ね、枝分かれする中で

系図に記されてる内容が一致しないものが多くありますが、

高屋豊前守則氏、江刺兵庫守に仕りて江刺郡内に5,000石の地を領し、井手高屋城に居。

元亀元年葛西時胤伊達輝宗と合戦の時、則氏勇戦して輝宗の子政宗軍を破る

その則氏の弟は、恒忠で後の下河原玄蕃。もう一人の弟は恒氏で、後の及川左馬之助、八戸御家中の

及川惣八郎の祖とあります。

また別系では、高屋四郎左衛門、天正19年母と叔父諸弟等と共に閉伊郡遠野に移り居。

弟は及川覚右衛門、八戸へ住す。

もう一人の弟は、中津山安右衛門(中津山某の養子)、さらにもう一人の弟は及川理右衛門、八戸に住す。

また別系では、左近則政二男、高屋四郎左衛門恒春、重直公の時、故有りて禄収られ、浪士になりて遠野に住す。

 

御制札を掲示していた場所が明示してあります。

諸系図のある高屋四郎左衛門は、江刺から遠野に居て、三戸・盛岡へと移りますが、

その弟たちは及川理右衛門、及川覚兵衛(後に中津山)となり、

また同じく弟の下川原玄蕃の系統では下川原長蔵、下川原三九郎が遠野に残り、八戸氏の家臣となります。

 

今年の清心尼公は八戸新田城まつりでも同じ役を務めた石藤さんという美人さんでした!

高屋四郎左衛門らが去った後の遠野を丸く治めたのがこの女殿様です。

ところで、

毎年のように入部行列に参加していた髭の金田一さんが見えませんでしたが、元気でしょうか?笑

及川理右衛門と同じ時代に金田一伊太夫という人が八戸家臣となります。

諸家系図では、金田一氏の本姓は武田。四戸支族で、信直公二戸郡金田一村を賜いて氏とす。

武田忠三郎、金田一駿河、金田一右馬助と続き、その子助三郎(与次郎)の子孫八戸弥六郎家臣となる。

後孫、金田一伊太夫と云う。この家、金田一の嫡流にして御黒印と小高帳を伝う。とあります。

 

まだ桜咲く遠野

古くから市(マーケット)を通じて、藩境を越えた人・物の交流をもって栄えた遠野ですが、

人口減少を嘆くことなく、また新たに転居してくる方々で賑わう夢を見たいと思います。笑

さて、さて、我が家のGW、現況では、親父は野放しにされるようですが、天気が・・・

 

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