全く予定どおりにいかなかった3月も今日で終わり、大量に花粉舞う春到来!
4月から初夏になるまでは、計画済みの出撃以外は我慢して、本業に専念する覚悟です。笑
さて、タイトルの「遠野に移った葛西系の人々」ですが、
文治元年(1189)、源頼朝の奥州征伐により、いわゆる鎌倉武士たちが東北に地頭としてやってきますが、
その総奉行を務めたのが葛西清重です。
その後の南北朝期・室町時代を経て、葛西氏所領の地域に定着した葛西氏家臣およびその系列の武士たちを
ここでは葛西系とします。
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先の21日に長野獅子踊りが報恩踊りを披露した一関市大東町大原は、
葛西家臣大原氏の居た地域と云う事で、以前から大変興味のある地域でもありました。
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長泉寺の大きな庫裏
天正10年(1582)、豊臣秀吉の天下統一に先駆けて、小田原攻めとなりますが、
その際、参陣しなかった武士達は所領没収の憂き目に遭います。
葛西氏や遠野の阿曽沼氏は参陣せず、阿曽沼氏は蒲生氏郷のとりなしにより、
領地はそのままながら南部氏の附庸となり、葛西氏は没収。
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大原の町並み
遠野では小田原攻めから、寛永4年(1627)に八戸(南部)直栄公が領地替えで移動して来るまでの45年間、
領民・武士共に落ち着かない殺伐とした時代になります。
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大原山吹城二の丸
天正15年(1582)、葛西宗家に反抗した葛西家臣江刺重恒は、重臣菊池右近、太田代伊予に意見され、
伊予は討たれ、右近は遠野に逃れます。後に、平清水・新谷などと名乗る本姓菊池の祖です。
今でも遠野と江刺には、菊池さん、菊地さんが多くいますが、皆な皆この系統だとは云えないようで、
天正15年以前から遠野には本姓菊池を名のる武士が多くいたようです。
(私は、南北朝期以前から菊池さんが居たと思っていますが)
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山吹城から見る大原の町並みと室根山
翌天正16年(1583)、先の江刺重恒の妹婿である米ケ崎城の浜田(本姓千葉)安房守広綱が、
主家葛西氏の指示により志津川の本吉氏に討たれます。そこで生き延びた浜田氏四男清春は落ち、遠野へ。
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大原長泉寺本堂
天正18年(1590)、秀吉の奥州仕置後に宮城県北・岩手県南地域を任せられた木村氏に対し、葛西系、大崎系の
武士たちが反乱を起こします。(葛西・大崎一揆)
そして翌年の九戸政実が秀吉軍によって討たれることで東北の形勢が決まってしまいます。
この最後の勝負で敗退した葛西系の武士たちは、農民になるもの、商人になるもの、仕官を求めて移動するもの
と、大きな選択を迫られ、その中からも遠野に移動する人達が出てきます。
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大原新右衛門もその一人です。
文明18年(1485)(開山には諸説あり)に大原長泉寺の末寺として開山したカッパ渕脇の常堅寺は、
その年に大原弾正勝行が開基したと云われています。
大原弾正勝行は大原新右衛門とも称したと書いている文章もありますが(私もそうでした)、
証明できる資料で確認できていません。また、新右衛門も勝行も大東町史の大原家系図では見当たりません。
また、文明18年に開基できるほどの領地を勝行が遠野に持っていたという資料も見たことがありませんが、
その大原氏が落ち延びて来た時に所持し、常堅寺に奉納したという道元禅師座像が今も残っています。
また、慶長11年(1606)横澤某が大旦那の徐災・延命と大原勝三郎の長命を祈願する旨を記し、
松崎養安寺に奉納したと思われる観音立像が、現在、松崎観音堂に安置されています。
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常堅寺墓地の大原氏墓碑
慶長19年(1614)、大阪冬の陣となりますが、南部方として遠野から参戦したのは、
上野右近名代久右衛門、板澤平蔵、達曽部彌兵衛、大原新右衛門、小友喜左衛門、新里平蔵、宮守主水、
遠野小組(高屋四郎左衛門、及川覚兵衛、宇夫方太兵衛、末崎民部の四人を遠野小組四騎と云う)
小友氏は本姓菊池旧江刺家系、高屋氏は旧江刺家臣、及川・末崎氏は旧葛西系
時期は別にして大原氏同様に遠野に移り住んだ人達です。
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大原長泉寺のお地蔵様
阿曽沼氏没落後に城代を務めていた平清水駿河、上野右近が亡くなり、三戸南部氏から派遣された
毛間内三左衛門、槻舘左兵衛の交代制二城代から、寛永4年(1627)八戸(南部)直栄が遠野へ領地替えになります。
遠野古事記には、その頃まで居た三戸南部家臣の居住地と名前が記されていますが、
阿曽沼旧臣以外で寛永11年の(三戸)南部氏寛永支配帳(HP近世こもんじょ館より)にある関係者をすり合わせると
葛西浪人大原新右衛門(300石)、葛西浪人浜田彦兵衛(300石)、葛西浪人高屋四郎左衛門(50石)、
江刺浪人大町宇衛門(100石)までは、寛永支配帳に名前・石高あり
古事記には葛西浪人欠下茂左衛門の他、近世こもんじょ館を参照すると栃内主計、本宿因幡が、
江刺、気仙からやって来たことがわかります。
この中で、大原氏は後年の三戸南部支配帳には見えず、一代限りだった可能性が高く、
浜田彦兵衛は、本文前半の天正16年に登場した浜田清春本人です。
このように阿曽沼氏没落後、八戸(南部)直栄移封までの間、横田城(鍋倉)及びその周辺で主力となっていたのは、
移動して来た人達だったことがわかりますが、その多くが八戸直栄移封前には、三戸南部氏のもとに再移動します。
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大原長泉寺の涅槃図
最後に、今回近世こもんじょ館の「盛岡藩士の家系」で見つけた興味深いもの
「葛西正兵衛家」
葛西晴信は牡鹿、登米、本吉、気仙、磐井、江刺の七郡と桃生郡東部、栗原郡東北部を領有し、
登米郡寺池城にあったが、天正18年豊臣秀吉の小田原征伐に参陣せず改易となり滅亡。
この時、妻子四五人は家臣宮沢藤兵衛を俱して登米に落ち、閉伊郡遠野に潜居。
宮沢藤兵衛の扶助を得て同地に死去した。その子勝兵衛晴勝は父晴信と共に遠野に隠れ、
藤兵衛の介抱により年除を送ったが、慶長3年主従三戸に到り、南部家の客分となった・・・。
と、ありました。
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土淵町飯豊には、旧蹟舘神神社の石碑があります。
此の舘神神社は此れより北方十六間ばかり隔ちたる杉の中に葛西氏の一族を祀れる御舘神神社と
伝説ある一堂宇ありしが、開田工事に際しお堂の床下より二柱の御骨発掘されたるを何所に奉斎せるや
不明にして殆ど殲滅状態にあるを痛惜する一有志菊池寅蔵が理想郷発展を祈願し斯の碑を建立し
永世に旧蹟を保存せんとす。 昭和34年旧4月8日
この石碑のある土淵町飯豊には宮沢という地名・苗字があり、高貴な人(地元では天皇と伝承)が
来住した処だと云われています。この言伝えの高貴な人が葛西氏主従一族だとすれば、
素性を明らかにせず暮らして当然であり、後に三戸に移ったことで、地元ではいつのまにか居なくなった
と云う話になっても不思議ではありません。また、その葛西氏が住んでいた場所付近に亡くなった妻子を葬り、
その後地元の人達によって舘神として祀られるようになったと考えるのはどうでしょうか?
ちなみに飯豊から道一本先の地域に大原氏ゆかりの常堅寺があり、大原新右衛門が先に三戸南部氏に仕官
していたということも関係あるのではないでしょうか。
葛西家臣宮沢藤兵衛と同じ姓の宮沢氏は後に八戸(南部)弥六郎家臣になり、同じ姓の方々が、
ここ飯豊と上郷町平野原に今も居ますが、幕末の安政年間(1854~1830)に平野原の宮沢長兵衛宅で、
士族水越丹左衛門が私塾を開いたと「上郷聞書」にあります。
水越氏もまた、同じ時代に葛西系武士として遠野に来た一族です。
ここ数日、なんども、エラーを繰り返し、やっと、入力完了という事で、心置きなく本業に専心します。笑