お久しぶりです。梅雨らしい天気が続くここ遠野、なかなかカメラを持ち出せずにいますが、
ぼちぼち更新中の遠野話題のブロガー諸氏に倣い、更新。笑
まずは先週土曜日のこと、こちらに参加してみました。
遠野市史編纂に関わっている元弘前大学教授の斉藤利男先生の講演
「中世の東北と遠野」ということなので「遠野保」についてもふれるのでは?と期待していたのですが、
予想どおり、話題の中心でした。
結論から云うと、奥州藤原氏によって、金山開発及び馬産を中心にして成立したのでは?ということでした。
たまたま、今週は陸前高田市に仕事で行く機会があり、約束の時間まで竹駒神社へ寄り道
行基菩薩が玉山金山を発見したことから伏見大社を金山守護神として勧請し、藤原清衡が神社を奉斎した
とネットには載ってありました。笑
この神社のさらに奥の山中に、奥州藤原氏の時代のものとして有名な玉山金山があるようです。
神社へ行く途中にあった不動堂
金山隆盛時、羽黒派修験大和坊昌永が玉山に居住し不動院として創設したものだと案内板にはありました。
玉山金山周辺には金売り吉次屋敷跡もあり、藤原氏の時代には最大規模の金山だったようですが、
隣りの大船渡市、住田町にも金山があり、気仙郡に属していました。
では、その頃の遠野はというと、江刺郡、稗貫郡、気仙郡と後の閉伊郡に囲まれてはいるものの
そのうちのどこかに属していたという確証はないようです。
ただ云えるのは、奥州藤原氏の時代には「遠野保」と呼ばれていた可能性が大だということで、
「遠野保」の文献上の初見は建武元年(1334)8月3日付けの北畠顕家国宣で、後に阿曽沼譲状と呼ばれるものです。
阿曽沼氏の祖は、戸矢子有綱(後の阿曽沼有綱)で、その地名である戸矢子は「戸屋子保」といい、
有綱はその「保司」だった人物です。
神社のはるか下にある鳥居の脇に赤瓦屋根の大きな建物が目に入りましたが、竹駒神社の社務所のようです
「遠野保」について昭和61年に伊藤英造氏が講演した文章があり、そこでも斉藤先生同様に
藤原氏によって「保」が成立したものと論じており、その成立要件として、内陸と沿岸(蝦夷)
との交易及び馬産だったのではないかとあります。(両者共、馬産については共通)
土曜日(10日)はSL銀河運行日 プラットホームでは座敷わらしがお出迎え
駅前では上郷町板澤しし踊りさんが歓迎の舞
上郷町の来内では、明治時代、農業の閑散期には川で砂金取りをしていたと何かの本にありましたが、
確かに気仙同様に、遠野も金山で栄えた歴史をもつ地域
講演では斉藤先生が金山を遠野保成立の要件のひとつにあげていましたが、
同じ時代に藤原氏が関係して成立し、葛西清重の所領となった「保」には平泉保、黄海保、興田(沖田)保があり、
中尊寺に関わって出来た平泉保を除く、二つの保が金山に関係していたという記述をかつて見たことがなく、
今もって?の状況でいる笛吹です 笑
ここまできて、何回も云っている「保」って何なんだ?という皆さんは、ぜひ、ネットで確認してみて下さいね!笑
調べれば調べるほど、わからなくなったりして・・・汗
土曜日が毎週休みとは限らない職場が多い遠野、レギュラーの若手が不在ながらも
人数を揃えてのお出迎えは流石に板澤しし踊りさん
先の講演で、遠野の語源についてもふれられ、現在のアイヌ語研究者は、「とおの」のアイヌ語起源説を否定している
ということでしたが、やはり、伊藤英造氏も同様の見解で、多賀城が「トオノミカド」と呼ばれたように、「遠イ野」
「遠ノ保」から転じた和名説を主張しております。
アイヌ語の湖(あるいは沼地)起源の「トオヌップ」のほうがロマンがありますが・・・笑
その遠野、そもそもどこが中心だったのでしょう?遠野盆地の中心部は以前は横田村と呼ばれており、
明治の町村制施行で早瀬川の南側が遠野町となりました。
江戸時代には周辺部を含んだ遠野郷という言い方がされますが、遠野村も遠野町もありません。
斉藤先生は金山開発を中心に据えると、現在の綾織・鱒沢・小友周辺というニュアンスで話されていましたが・・・。
お花を頂いて御礼の踊り
しし踊りに参加するメンバーに必要なのは、良き理解者のおじいちゃん・おばあちゃんのようです
孫には勝てません 笑
講演の中で、ウンナンさんのことがありました。宇迦神社のウンナンさんです。
町中の一日市にも、この神社がありますが、地名としては上郷町に「宇南田」、「宇南林」が、
また転じた地名・苗字として「運万」があります。
東北大学元教授の大石直正先生の論稿に「東北中世村落の成立」があり、その中に中尊寺領骨寺村
のことが記されており、当時の骨寺村には「宇那根社」、「宇那根田」があり、現在は「ウナンダ」
「ウナン沢」という地名が残っており、「ウンナンさん」は水の神で、開発による用水路の辺りに祀られた
新田開発の神であると述べられており、藤原氏時代に広まった信仰だと斉藤先生も同様の見解でした。
という事になれば、「遠野保」の成立には、少なからず水田開発も含まれていたことになるのでは?
と、笛吹は思うわけです。笑
駅前で踊った板澤しし踊りさんが次に向かったのは一日市(ひといち)にある「遠野物語の館」
かつての「むかし話村」ですが、造り酒屋だった建物群を再利用している施設です。
蔵のなまこ壁が目を惹きます。笑
蔵と云えば、遠野には「くら」地名が何カ所かあり、来内川そばの石倉、小友町の草倉、上郷町の平倉。
隣りの釜石市には松倉。
いずれも気仙郡との境界となる山の北側になります。
その反対側の気仙郡に目を向けると寒倉、金ノ倉、土倉などがあり、この「くら地名」が何を意味するのか
常々興味津々といったところです 笑
小雨の降る中、20名ほどの観光客と一人のカメラマンの前で踊ります
遠野まつりまでの間に、まだまだ使うしし頭のカンナガラ
雨に濡れないように下屋の下で・・・
遠野保の成立要件に出てきた交易、金山開発、新田開発、残るは馬産
南北朝期、沿岸部の山田町大沢には馬の牧があったことがわかっていますが、
遠野市北東部にある荒川高原や市内の駒形神社など伝承としては、平安時代からの馬産地と云われながら、
その裏付けとなる資料が乏しいのが実情ではないでしょうか?
少なくとも、南部氏の支配以後の馬産地には異論はないのですが・・・。
久しぶりの更新に写真話題も薄く、もっとまとめた段階で載せようと思っていた「遠野保」
雑感だけで午前3時、いいかげん寝ようと思います。 汗