披露宴(3日)の余韻を残しつつ、3年ぶりに南部神社例祭へ
11時過ぎ、拝殿にて神事
そして、郷土芸能共演会
細越獅子踊り 拝殿前にて
明治期には踊られていたが、昭和7年板沢しし踊りの分家である火尻しし踊りから習い復活
上宮守神楽
由来には諸説あるようだが、明治初年に道具類を焼失し、明治中期に鹿込の山伏により復興
遠野郷八幡宮の八幡神楽とは兄弟神楽だと云われている
持参している幟を拝見すると、向鶴紋にご覧の文字
勤王五世とは、遠野南部氏の師行、政長、信政、信光、政光で、南部神社の祭神でもある
現在の南部神社は昭和19年に改名したもので、明治15年に成立した際は鍋倉神社
盛岡南部藩世襲筆頭家臣であった遠野南部氏の元家臣を中心に造られた神社
この日の演目は恵比寿舞い
後ろの幕を見ると、丸に向鶴紋、脇には昭和11年5月3日とあった。
先の幟は遠野南部氏の向鶴紋で、神楽幕は丸に向鶴紋、幟は拝領とあることから、
神社から直接頂いたものか、幟製作料としてお金を頂いたものかは不明
しかし、幟製作に関わった方は丸無し向鶴が遠野南部氏の紋だと理解していたと考えられるが、
昭和11年の例祭日に合せた神楽幕では、その違いがわからなかったのかもしれない
昭和初期に奉納されて以来となる上宮守神楽の再演
個人的には大変うれしいものがありました
熱演された恵比寿様、そして上宮守神楽の皆さん、ありがとうございました
土淵しし踊り
現在の土淵町では江戸末期には、大杉、足洗川、野崎、和野・山口、栃内等の地域で其々踊られていたものが
ひとつになったのが現在の土淵しし踊りだが、当初は駒木鹿子踊りの系統だったものが、
いつの頃か、附馬牛町の張山しし踊りから再習得して、現在に至っているようです
松崎町駒木、附馬牛町早池峰系しし踊りのものと笛のいずれかの穴の位置が異なっているように思われる
明治12年、八幡宮の例祭に踊りの奉納をした際、遠野南部家より向鶴紋の幕を頂戴したとのこと
但し、しし頭の紋には丸が付いているのは、加工上の問題か? 笑
2日の宵宮でも演じられた平倉神楽
大迫早池峰神楽嶽流石鳩岡神楽の弟子神楽ということで丸に向鶴紋
明治初年に小友町長野しし踊りから伝承された鷹鳥屋獅子踊り
いつ頃から南部神社の例祭に参加するようになったか不明
踊りの最後に「投げ草」
小友町のしし踊りの「投げ草」の歌は味があって私は好きです
この日出演されたのは向鶴紋を持った郷土芸能、意図的だったか偶然だったかはわからない。
連休最終日の今日、もうすぐSL銀河が遠野駅に到着です 笑