先週の14日辺りから大工町にある善明寺さんの桜が咲き始めた遠野です。
本当は今日、恒例の同級生たちとの花見でした。
が、コロナで大勢集まるのは・・・ということで中止。
ならば、有志だけで店でジンギスカンなら・・・
ところが安部さんの全国に拡大発言で、医療・介護・保育関係者がいる家族も
感染の恐れがある場所への不要不急の外出は如何なものか・・・となり、中止。
毎年、GWまで咲いていてくれればなどと思いながら愛でるのですが、
今年は桜を見る心持ちもだいぶ変わります。
同じく先週のこと、某知人がこんな物を持って拙案内所にやってきました。
慶応元年の正一位稲荷大明神の許可証ともいうべき文書です。
社には上の文章と棟札も保管されており、慶応二年に再興された建物の札。
社司六兵衛によって、本家高橋氏尚義の武運長久を祈願したもので、遷宮導師は慈聖院。
慈聖院は綾織住の修験者で、高橋稲荷という個人宅の稲荷様です。
さて、この高橋氏、遠野にいつ頃からその名が確認できるかと書物を見ると、
遠野物語32話に畑屋の縫が出てきます。
縫(ぬい)は阿曽沼氏の時代から南部氏統治後も古人役(藩・領境の証人)を務め、
延宝6年(1678)に京都の仏師に依頼し、観音像を購入
その時の名前は機屋村高橋氏縫之助。
他には現在の遠野市運動公園付近の踊岡を開墾した百専右衛門の話に出てきます。
百専右衛門は天明2年(1782)に生まれ、嘉永2年(1849)に亡くなっています。
延宝3年(1675)遠野南部長義(八戸氏)の弟頼母が分地され遠野市附馬牛に住み
代々、小八戸氏と称しますが、専右衛門の祖父高橋仁兵衛は小八戸氏の家中に召し出され、
盛岡藩士となり遠野市附馬牛へ移動したものと思われます。
百専右衛門の父高橋由儀は天明2年に釜石で医業を営み、そこで専右衛門が生まれ、
飢饉により天明4年に母が亡くなり、専右衛門は母方の祖父佐藤屋理右衛門が養育し、
松田理助と名乗り、後に大町市左衛門と改名し、最後は百専右衛門となります。
(話は逸れますが、佐藤屋理右衛門、本姓は松田ということで松田理右衛門です。
遠野七観音には、その由来額が掲げられており、その奉納者に松田理右衛門政當という
人物がおり、両者が同一人物かどうか興味深いところです)
昨日の善明寺の桜
佐藤屋理右衛門に専右衛門が引き取られ、残った兄弟と父は、祖父の知行所へ引越し、
父はそこで亡くなり、専右衛門、兄歌見、弟仁兵衛は、佐藤屋同様の母方の親戚である
高橋新兵衛の子として遺領を分与されることになります。
明日には、市内各所の桜開花情報があちらこちらから届くのではないでしょうか?
次に、綾織町の光明寺由緒を見ると、上野丹波守広吉(右近)が開基した曹洞宗のお寺で、
上野亡き後は宇夫方清左衛門広道が中興開基となり、その後は新里家と高橋家が中心に
なっていたことが記されています。
その高橋家の人物に高橋伊左衛門と高橋新兵衛の名前があります。
百専右衛門の母方の親戚に出てきた新兵衛です。
もしかすると、祖父高橋仁兵衛の元の知行所も、母方の親戚高橋新兵衛の知行所も
同じ綾織町だった可能性大です。
幕末近くには新里氏も高橋氏も、その系統の多くが遠野の町に移り住むことになるようです。
と、稲荷大明神から見えたあれこれ。笑